第1回

「笛と童子」

 市民センターがオープンして4年目、暗中模索の中で市民の舞台がスタートした。ひでりに苦しむ百姓たち、継母にいじめられる少年健太、南部遠野郷の片田舎にしいたげられた百姓の苦悩と人間愛、郷土芸能とわらべ歌が流れ、少年健太の笛の音が六角牛の山にこだまする・・・・・”タイトルは「笛と童子」とする。
 すべてが初の試みであった。日本のどこにも前例がなく、不安もあったがまずスタートすることにした。理論や理屈は後で。すべて市民の手で、遠野の昔話を舞台化しよう。その熱意が、市内から市外へと伝わり、新聞、テレビ、ラジオなどマスコミが殺到した。
 3月14日の大ホールは舞台も客席も一つになって燃え上がった。ラストシーンでの山火事の中健太が吹く笛の音が、涙をさそう。物悲しい生演奏が会場をつつんで・・・・・。

第2回「でんでら野の夜明け」

「でんでら野の夜明け」

 「市民の舞台は1年おきに開催しよう」という意見が出ていた。精神的にも肉体的にもつかれきった「笛と童子」の参加者が本音を・・・・・。が、市民の反応がそれを許さなかった。
 4月22日に第1回企画委員会を開いて、取りあえず原作を市民から公募することにする。8月末、8点の応募で火がついた。いや、火をつけられた。“遠野郷の姥捨山”人々はでんでら野と呼ぶ・・・・・。この悲惨な事実と先人の生き方を考えよう、と参加者が立ち上がった。物語の舞台になった土淵町の人たちが燃えた。山口部落で古老たちが「田植え踊り」を復活させて出演し、「御詠歌」の婦人たちも協力。気がついたら参加者が520人になっていた。
 3階公演の前売券は一週間前に売り切れ、急遽リハーサルを公開する。名場面は一幕のラスト、老人が蓮台に乗せられ山へ運ばれるシーン、役者たちも観客も涙して舞台に集中する。苦悩の中から作り上げた感動の公演であった。

第3回「夕日の小弥太」

「夕日の小弥太」

 “ともし火を消せば漆黒となる萱ぶき屋根の奥座敷の祖父のふところの中で、私は座敷ワラシをいまだ見ぬはらからのようになつかしく思いつつ育った。生きているうちに一度会いたいものと思っていた。その念願がいま叶うわけである。”との原作者のコメントに秘められている作品の意図が、脚色により見事に表現された。
 一方、参加者の中から「市民の舞台は当面8回をめざそう」という声が出た。市内8地区にテーマを求め巡回しようというのである。キャストもスタッフも新人が増えた。特に高校生の演劇部や美術部の活躍がめだった。舞台セットも大型化し工夫された。市民の舞台が、前年の花巻市民劇場に続いて北上市民劇場がスタートするなど広がりを見せた。
 「小弥太」は夕日の中へ・・・・・感動のラストシーンに拍手が沸きあがった。そして今回作詞作曲された「ファンタジーの歌」の大合唱、来年の再開を約束しながらさわやかな疲れを感じた。

第4回「お月お星の涙」

「お月お星の涙」

 53年5月、市民センターバレエスタジオがスターダンサーズバレエ団の協力で開設、さらに市民の舞台の音楽の向上を目指して作曲編曲教室が定期的に開催された。12月には3回の名場面を「思い出演奏会」で再現するなど、市民への啓蒙と質的高まりを求めた。そして、土淵町ではミニ版の町民の舞台「生きていた河童」が公演された。
 舞台作りは例年とおり、きっ買う委員会、原作公募、脚色と進み演出は今までと手法を変え、よりファンタスティックな舞台を追求した。それは舞台美術、音楽、バレエそして照明や音響を駆使しての真の“遠野物語ファンタジー”をめざす点で一つの転機となった。
 主役の子供たちの熱演に加えて、裏方の機敏な舞台転換に客席から拍手が起きた。“お月お星があるならば、何してこのかねたたくべや”ドライアイスが流れ、夜空に輝く三日月と星が・・・・・。

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