遠野市立博物館
遠野市立博物館 TONO MUNICIPAL MUSEUM
ようこそ『遠野物語』の世界へ
遠野物語の世界を映像で表現した大画面のマルチスクリーンシアター「遠野物語の世界」や遠野の地形図にプロジェクションマッピングで物語を投影する地形ジオラマスクリーン、遠野の里の暮らしを全長7メートルのジオラマで再現した「くらしの四季ジオラマ」など遠野の人々の暮らしや文化を『遠野物語』を軸に多彩な映像や展示で紹介しています。
館内図
第1展示室 遠野物語の世界
『遠野物語』とその舞台である遠野の世界に浸る展示室です。『遠野物語』を単に民話集としてではなく、「山」から「里」、そして「町」へ展開していった遠野の歴史を語るものと捉え、物語と歴史のかかわりを新たに表現しています。
■マルチスクリーンシアター「遠野物語の世界」■
「ザシキワラシ」より
大画面のシアターでは、『遠野物語』や民話を題材にした映像や、アニメーション「水木しげるの遠野物語」などが楽しめます。雲海に包まれた神秘的な遠野盆地の映像もオススメ。
上映作品一覧(上映時間)※上映作品はタッチパネルで選択することができます。
水木しげるの遠野物語 1河童淵 2オシラサマ (約12分)
プログラムA 1まよいが 2白い鹿(約16分)
プログラムB 1池の端の石臼 2郭公と時鳥(約11分)
プログラムC 1きつねのおんがえし 2やまはは(約16分)
プログラムD 1むじな堂 2神隠し(約19分)
ザシキワラシ(約14分)
■遠野のなりたち■
『遠野物語』から遠野の歴史を読み解いていきます。中心にある地形ジオラマ・スクリーンには遠野の創世神話と多くの不思議な言葉が湧き上がります。『遠野物語』の一節を展示しながら、遠野の歴史と伝説を物語る資料を展示しています。
天狗の遺品「遠野物語拾遺」98話ゆかりの資料
明治維新頃、花巻温泉に湯治に行った米屋の万吉は、天狗と出会いました。お互いに意気投合をした天狗は、遠野の万吉の自宅をしばしば訪ねたといわれています。
展示中の資料は天狗が最後に訪ねた時に形見として残した物で、天狗の下駄や湯呑、天狗が書いた書などが伝えられています。
天狗の遺物
ザシキワラシ『遠野物語』18話ゆかりの資料
ザシキワラシは、東北地方を中心に伝えられる家の神、精霊で、旧家の座敷にいて普段は目に見えないが、時に子どもの姿をして現れるという。この神のいる家は繁栄するが、いなくなると没落すると伝えられる。
山口孫左衛門家で祀られていた神仏像
第2展示室 遠野 人・風土・文化
遠野には「町」「里」「山」という3つの暮らしの領域があります。それぞれが独自の文化を育み、互いに影響しあいながら、盆地という空間の中で一体となっている遠野の暮らしの姿を、長年にわたって収集してきた豊富な実物資料や写真、映像で紹介しています。
■町■
明治から大正時代頃の市日でにぎわう通りをイメージした空間を歩きながら、遠野のまちが内陸と海岸の中継地であり、多くの人と物と情報が行き交った政治と経済の中心であったことを知ることができます。
■里■
昭和30~40年代、遠野で暮らす家族の一年をあらわしたジオラマを中心に、民俗写真と実物資料により、厳しい自然と向き合い生きて来た、里の暮らしを伝えます。
馬への祈り
遠野の馬は、農耕や駄賃付け、山仕事などの労働力になったばかりではなく、馬市での貴重な現金収入源としても人々のくらしを支えてきました。そのため人々は馬を大切にし、馬の繁殖と健やかな成長を願って、各地域には駒形神社が創設され、数多くの絵馬が奉納されました。
遠野の絵馬と馬形
オシラサマ信仰
オシラサマは、桑の木などで2体1対のご神体を作り、主に家の神、養蚕の神、目の神として東北地方を中心に信仰される民間信仰の一つです。明治27年(1894)遠野出身の人類学者・伊能嘉矩によって初めて全国に紹介され、さらに柳田國男の『遠野物語』によって養蚕の始まりを伝える馬と娘の話が広く知られるようになりました。祭日には、オシラサマにオセンダクといわれる新しい布を一枚着せて、豊作や家内安全を祈願します。
遠野の民俗芸能
遠野では様々な民俗芸能団体が活動しています。しし踊り、神楽、田植踊り、南部ばやし、さんさ踊り、虎舞、まぬけ節、御祝い、流鏑馬、甚句踊りなど多種多様な民俗芸能が伝承されています。
遠野の神楽
遠野の神楽は、早池峰山の里宮大出早池峯神社に奉仕する禰宜とその縁者により伝えられた早池峰系神人神楽と、里の山伏により伝えられた山伏神楽に大別され、これらは演目、演目の順序、採物等の違いに特色があります。神楽をはじめとした民俗芸能は神への祈りや感謝として、また、人々の最も楽しみな娯楽の一つとして永く伝承されています。
遠野の神楽面
遠野のしし踊り
遠野のしし踊りは、鹿を象徴したしし頭を被り、身にまとった幕をもって踊る幕踊り系のしし踊りと呼ばれています。岩手県中北部に伝承され、遠野ではドロノキ(ヤマナラシ)をカンナで削った薄く長い経木状のものをつけるので、特にカンナガラじしとも呼ばれています。
青笹しし踊り装束
石や木への祈り
『遠野物語』には、「路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず」とあるように、遠野には石碑が無数に立っています。自然と調和して暮らす遠野の人々は、長い年月を経ても姿変わらぬ「石」には神が宿ると信仰しました。また、この地に根を張る大きな樹木にも神が宿ると信じられてきました。
■山■
山は暮らしの場であると同時に、神や獣が棲む異郷と考えられてきました。ここでは山仕事や山伏、早池峰山信仰の資料を展示しながら、人々が山の中で感じた恐れと自然の神秘を音響により表現。物語の生まれる瞬間を、想像力によって実感してもらう場です。
「山」
遠野の山伏たち
古来、神が宿る奥深い山中で修行し、超自然的な力を身につけた行者は、山伏と呼ばれました。江戸時代に遠野にいた山伏の多くは、普段は里に住み、病気などの災難をはらうための祈とうや占い、お札配り、遠野三山のお山かけの道案内、村の小さな神社の祭りなどを行っていました。
遠野の山伏
鉄砲打ち
遠野では、狩りをする人のことを鉄砲打ち、古くは山立(やまだち)と呼んでいました。鉄砲打ちは、冬に狩りを行い、普段は農業や他の山仕事をしていました。
狩りは単独か少数で行い、熊も巻き狩りでなく穴で冬眠しているところをねらいます。動物を獲った時には「引導わたし」と呼ばれる儀式を行い、霊魂をなぐさめ、たたりを防ごうとしました。鉄砲打ちに伝えられる狩りの秘伝書には、儀式の呪文や狩りの方法などが記されています。
金山稼ぎ
遠野には数多くの金山がありました。その始まりは明らかではありませんが、小友町から宮守町にかけての金山地帯は、平安時代末から採掘され、奥州藤原氏の平泉文化を支えたという伝説があります。
また、江戸時代には多くの金山が開発され、寛永5年(1628)には小友町の金山をめぐって仙台藩と盛岡藩の境争いが起きました。
遠野の「鉄砲打ち」「金山稼ぎ」
第3展示室
企画展示室です。定期的な企画展示はもちろん、博物館活動の成果や時事のトピックス展示など、規模やテーマに応じて、さまざまな展示を行います。特別展・企画展開催時以外は、定期展示「『遠野物語』と現在」を行っています。
柳田 国男(やなぎた くにお)1875~1962
柳田国男
明治8年(1875)現在の兵庫県福崎町辻川に生まれ、東京帝国大学を卒業後、農商務省に務めるなど官僚生活のかたわら明治43年(1910)に日本民俗学発祥の記念碑とも呼ばれる『遠野物語』を発表。大正8年(1919)官界を去り、昭和37年(1962)に永眠するまで『雪国の春』『海上の道』多くの著作を刊行し、日本民俗学の発展に尽力した。
佐々木 喜善(ささき きぜん)1886~1933
佐々木喜善
明治19年(1886)現在の遠野市土淵町生まれ。明治41年(1908)11月4日、早稲田大学在学中に柳田国男と出会う。喜善は遠野に伝わる不思議な伝承を柳田国男に語り、『遠野物語』が誕生した。その後、民俗資料の収集に没頭し、オシラサマやザシキワラシの研究などを行った。大正時代から昭和初期にかけて『江刺郡昔話』『老媼夜譚』『聴耳草紙』など多くの昔話集を執筆し、その先駆的な功績により「日本のグリム」と呼ばれた。昭和8年(1933)48歳の時に仙台で他界した。
伊能 嘉矩(いのう かのり)1867~1925
台湾にて(写真右 伊能嘉矩)明治34年12月撮影
台湾人類学者岩手県遠野生まれ。東京帝国大学の坪井正五郎から人類学を学び、明治28年(1895)台湾に渡り、約10年間にわたり台湾原住民の調査・研究を行う。遠野に帰ってからは、台湾研究を進めるかたわら、柳田国男や佐々木喜善、ネフスキーなどの民俗学者と交流し、『遠野物語』の成立にも影響を与えた。台湾研究の大著『台湾文化志』は、現在も国際的に評価が高い。
ライブラリーサロン/遠野アーカイブス
■ライブラリーサロン■
遠野のフィールド情報や偉人先人の業績を、パソコンや関連図書、フィールドマップで調べることができます。見どころをタイムリーに紹介し、来館者を遠野探訪へ誘います。
■遠野アーカイブス■
100本以上の昔話や民俗芸能、伝統技術などの映像を選択して見ることができます。